年々薄れていく記憶の中で、半世紀前のことを書いてます。
段々と今に近づいて行く恥ずかしさもあり…進みません。
その後、Tファクトリーは手狭になった神宮前のアトリエから、
骨董通り脇の広いマンション5Fへ引っ越しをして、
3回目のショーや外部企画を充実させて行きました。
そのマンションの1Fにコムデギャルソンが入っていて、毎朝出窓すると
川久保さんが、腕を組んで虚空を(私達?)睨んでいました。
彼女のエネルギー源は怒り💢だそうです。
企画スタッフも増えて、感性の良いニットデザイナー
(西武百貨店の方からの推薦)や
テキスタイルを手伝ってくれた、芸大、武蔵美、多摩美の学生、
それぞれが得意分野が違って、良くできた3人でした。
私が一晩考えてもできなかった多色縞の色違いを、
あっという間に芸大の子が作ってくれた時には
脳細胞と視覚の出来が違うと痛感しました。
音楽に絶対音感がある様に、色も見分ける感覚がある様で、
美術にも絶対色感がある様です。
新しくビジネス・ディレクターも参画、若い子も多くなり、
苦労も増えましたが、毎日楽しくお仕事をしてました。
先生が3回目のショーの後はパリコレをやると言って、
フランスでも仕事は英語だからと、ディレクターの女性と私、
文化服装で遠藤賞を取った男性ニットデザイナーと3人で
英会話を友人のお兄さんの大使館勤務をしてた方から習いましたが…
ディレクターのNYさんは大阪公立大の被服学部卒の賢い人で、
少し英語は話せる大学レベル、私は中3、男性デザイナーは
中1レベルで、3人揃うと凸凹でもう滅茶苦茶。
(後にこの男性デザイナーはパリへ行き、仕事をしてた
から語学はなんとかなった様です。)
私は英語の先生から、もう君は大丈夫、ボディランゲージで
行けると思う、と匙を投げられてしまい、ディレクターが嫌がって…
この方とは後に一緒に香港貿易発展局のお仕事をします。
3ヶ月くらい習ったかな…忙しくなって中断しました。
3回目のショーは帝国ホテルで、同じ山形メンバーの後押しで
無事に成功しました。
この時初めて実現したのが、インターシャ、あのリアルな
狼の肖像画のようなクリッツアが作っていたニットの手法。
編み込みでも裏に糸が渡らない、軽く仕上げる手法です。
今は工業機でも出来るそうですが、その頃は裏で糸をとめて
大変な作業だったと思います。
クリッツアのセーターはあの頃1976年で60万円くらいしてた、
京○さんに言ったら宝石でも嵌め込んでるの?と言ってました。なんと夢の無い…
ショーの当日に編んでくれた東北のニッターさんが、自ら
出来上がった作品を持ってショー会場へ来てくれました、
もう皆拍手もので…
この頃会社は経営がかなり大変だった様で、スポンサーの
商社からTファクトリーに社長が派遣されて来ました。
どうも借金と一緒に企画部門が売られた感があり、経理の
方から、コッソリ私にもどうするか?と、お話がありました。
しかし、企画業のスタッフも私が集めた人もいて、
自分だけが向こうへ裏切ることは、嫌でした。
会社が契約している外部企画も多かったのです。
元あったアトリエ近くで、別枠でパリコレ準備が始まって
パリ・エジプトから帰国後隔離されたデザイナー中心に
今までからの継続は2人程、殆どが新しいメンバーだった様です。
この頃いっそパリへ行こうと思っていたのですが、企画を
手伝ってる生地屋の担当から、行ったら一生許さへんと言われ…
でも今考えたら行けば良かったかな、と思います。
少し年上のアパレルの社長と相談役からうちへ来ないか?
というお話があり、先輩の友人達が勤めていた元会社だったので
別会社にしましたが、一緒に仕事をする事にしました。
これが私の最初のつまづきだった様です。…とは思いますが、
その頃、独立しか選択肢が無かったと思われます。
折もおり、世の中では不況の嵐が…忙しいのは佐川急便だけ
(返品が多いので、行きと帰りWで儲かってると…)
と言われていた冬のシーズン、1976年の年末でした。
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